チョコレートよもやま話 |
** チョコレート原液のできるまで ** チョコレートの原料はカカオの木になる果実からつくられます。
カカオの果実は莢(さや)につつまれ、幹に直接ついています。
莢の中には甘くて汁気たっぷりの果肉と、それに包まれた30から40粒のアーモンド状の種子(豆)があります。
莢を開き、豆と果肉をとりだし、だいたい4つの工程をへて、「カカオ.ニブ」ができます。
それをすり潰したものをチョコレートとよびます。(味付けはいろいろありますが。)
4つの工程とは、@発酵、A乾燥、B焙煎(火で焙る)、C風選(ふるいわけ)です。
この工程は過去3000年の間変わらなかったし、現在も変わっていません。
この中でもっとも重要なのは@の発酵です。
発酵の1日目に種子は一度は発芽しながら、高温と酸度によって死んでしまいます。
この発芽は重要で、発芽していない豆から作られたものには、チョコレート独特の風味がありません。
さらに適度の温度で発酵された豆は、天火で乾燥され、焙煎されます。
ここまでの工程で手抜きが行われると、チョコレートの風味がそこなわれます。
最後に、風選で薄い殻がはがされ、取り除かれます。
こうして出来たニブをすり潰すと、やっとチョコレートらしきものができます。
これを業界では「カカオ原液」とよんでいます。
** カカオの木 ** カカオ(チョコレートの木)の学名はテオブロマ.カカオといいます。テオブロマの名前の由来は(神々の食物)を意味するギリシャ語に由来しています。
アメリカ英語では、カカオの木そのものと、それから採れる未加工のものすべてを「カカオ」とよび、種子を加工したものは、液状であれ、固形であれ「チョコレート」とよびます。
また、「ココア」は脱脂した粉末のみをさします。
カカオとココヤシはまったくべつもので、コカノキ(麻薬のコカインが作られる)ともちがいます。
カカオは栽培が非常に難しい植物で、最低気温が16℃以上の、北緯20度と南緯20度の間でしか実を結ばない、1年中水分を必要とする熱帯性の植物です。
** チョコレートの歴史 ** 諸説はいろいろあるようですが、最初にカカオの木が栽培されたのは、オルメカ文明のなかでのことと、考えられています。
紀元前1500年頃、アメリカ大陸のメキシコ湾に面した高温多湿の低地に生まれたと考えられている「オルメカ人」によるオルメカ文明は紀元前400年頃まで続きました。
オルメカ文明では、巨石人頭(何トンもあり、はるか遠くの土地から運ばれた)と精妙な彫刻をほどこした青緑色の翡翠が発掘されています。絵文字もいくつか発見されていますが、まだ解読されていません。
オルメカ文明は、ミヘ=ソケ人による「イサパ」文明に受け継がれ、この人たちによって
「カカオ」という言葉が伝えられたと考えられています。
イサパ文化はグアテマラの太平洋沿岸地方と山麓地帯からメキシコ湾岸平地まで広がっていました。それは「カカオ」の栽培にうってつけの土地でした。
このイサパ文明は、壮大な都市を作った後の古典期マヤ文明に受け継がれます。
古典期マヤ文明は西暦250年頃から900年頃まで栄え、この文明の中で「カカオ」は非常に重要な産物となるのです。
マヤ族は絵文字を非常に手の込んだものにまで発展させ、あらゆるものを絵文字で表すことができ、古代のマヤ人は書物の人と呼ぶにふさわしい民族でした。
ただ当時の本は樹皮紙に書かれ、非常にいたみやすいうえに、後のスペイン人によって異端の書として焼かれたため、現在では、たった4冊しか残されていません。(4冊ともスペイン人による制服より少し前の時代のもので古典期マヤ文明のものではないらしい。)
現在では、これらの絵文字の大部分は解読されています。
古典期マヤ文明では「カカオ」は主に貴族の飲み物として重用され、泡立てられて飲まれていたと考えられています。(書物はないが、発掘された壺に描かれた装飾などによる)
西暦800年を過ぎたころから「古典期マヤの崩壊」とよばれる大崩壊がおこり、北のユカタン半島や南の高地へと民族の大移動がおこなわれ、都市は密林に埋もれるにまかされました。(原因は人口過密と深刻な環境の悪化と考えられとおり、何か身につまされる出来事ですね。)
しかしながら、一部の人々、特にユカタン半島の北西部にあるプウク丘陵でのプトゥン.マヤ族は、カヌーによる交易網を一手に握り、大都市チチェン.イツァーを中心として、
末期古典期マヤ文明を築きました。彼らの交易の重用かつ原動力になった物資(兼通貨)が「カカオ」でした。
十世紀に入るとトルテカ族が、プトゥン.マヤ族を打ち破り、メキシコ湾をわたってユカタン半島まで勢力を伸ばし、チチェン.イツァーを東の首都として、半島全体を統治しました。メソアメリカの大半が、「トルテカの支配による平和」のうちに後古典期を迎え、それはスペイン人の侵略まで続きました。
一方、メキシコ盆地では、アステカ族が台頭を始め、1375年には、テノチティトランを首都とし、初代国王アカマピチトリをいただく国家がうまれ、それから100年の間に、メソアメリカの大半を支配下に収めた、最盛期でメキシコ中部だけで人口が1100万人(説は色々ありますが)という大帝国が築かれるのです。
アステカ族はすべてを支配できる強大な軍事力を持っていましたが、帝国の東隣に位置する高地および低地マヤ族については、あえて支配の手を伸ばしませんでした。
それは、多大な富をもたらす交易関係がすでに確立していたので、その必要がなかったのです。
しかしながら、マヤ族の間でもアステカ族の間でも常に勢力争いが起こっていて、その目的は「カカオ」の支配をめぐってのものでした。
当時「カカオ」は非常に重要な物資で、貴族階級の飲み物であると同時に、貨幣でもあり、儀式に欠かせないものでもあったのです。
当時、ユカタン半島では、キリスト教ににた洗礼の儀式が行われていました。
式は豪華な装束をまとった神官によって執り行われました。
まず、子供たちは、部屋の四隅に立つ4人の老人によって張り巡らされた紐の中にあつめられます。
老人たちは、世界の四隅に住むとされるチャク(雨の神)をあらわします。
次に、儀式を主催する貴族は一本の骨を取り上げ、それを、「ある花と、つき砕いたカカオを清らかな水(森の木のうろや岩の窪みに溜まった水)に溶かし」て作った液を満たした容器にひたします。そして、その液を完全な無言のうちに、子供たちの額と顔、それに手足の指の間にぬるのです。
また、当時の結婚の作法にも「カカオ」が使われました。
新婦は新郎に、色とりどりに塗られた小さな腰掛をさしだし、さらに5粒のカカオを与えて、彼に「汝を夫として受け入れる証としてこれらの品をあたえます。」といいます。
そして新郎の方も、新婦に何枚かのスカートと、やはり5粒のカカオを与え、同じ言葉をのべます。
貨幣の価値としては、うさぎ1匹がカカオで約10粒に相当し、奴隷一人が約100粒、
そして娼婦を買う場合は、交渉しだいで8粒から10粒でした。
また、カカオは現金としても通用し、賃金がこの通貨で支払らわれたことがわかっています。
当時の「カカオ」は、貴族階級の飲み物として重用されていました。
「カカオ」最初に栽培されてから19世紀の初頭まで、実に3000年の歴史の大部分が選ばれた人々の飲み物だったのです。
**このチョコレートの歴史は次の本を参考にさせていただきました。**
ソフィー・D・コウ、マイケル・D・コウ(樋口幸子訳)【チョコレートの歴史】河出書房新社(1999年)